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​1987.11.13  誕生。 ビシッ!!

 地元が東京の日野市。 i love 地元です♬

あることがきっかけでここ数年は地元で遊ぶことが少なくなりましたが、内心一番落ち着くし、一番大好きな場所です。

日野は元々平和な地域だったのか、自分の年代が平和だったのかはわかりませんが小中高と暴力沙汰もなく、男に生まれたのに少し残念ではありますが一度も殴り合うような喧嘩も経験せず成長してしまいました。 笑

 中学校の3年。卒業を控えた自分たちの最後のイベントが球技大会だったのですがその大会の最中にお菓子の袋が体育館内で見つかって球技大会が中止になるっていう。。笑 

今考えてもそこは見逃してくれよ!!!って思うような事が平然と行われるような平和な学校だったんです。 笑

 そんな平和な環境で育ったので友達にも恵まれて、イタヅラや悪行、女の子の話、ただただエロいだけの話、などなど楽しい学生生活を送れました。

一つだけ。もし子どもが出来た時に伝えたいのは、男子校にはいくな!!という事でしょうか。

中学の時はそこまで異性に対して興味なかった私ですが、高校が男子校だと”悲惨​”の一言です。女子の華』のありがたさを本当に痛感しました。

 私は最終学歴が工業高校で、就職先も建築関係だったので、16歳〜 異性と関る事はほぼ皆無でした。

おかげ様で人生に3回はあるっていうモテ期も一度もきてないので今も楽しみで仕方ないです♬ 笑

本当に来るんでしょうか??。。。。。 

 高校を卒業してほとんどの人は就職するのですが、私はまだ遊んでいたかったので就職しませんでした。

ふと海外に行ってみたくなったのでカナダに数ヶ月ワーホリに行ってきました。

 初めての海外、周りに一人も知り合いはいないし、言葉も通じない。

本当に何も出来なくて辛かったです。

英語の成績も元々1、2とかだったんで全く話せない、伝わらない、聞こえない、しかも宿も決めずに行ったので本当に怖い思いもしたし、本当に自分が情けなかったです。

しかし、そんな体験でも、とても役にたっている事があります。

 

特に

・スカイダイビングの体験は神!!! 

・ナンパしないと勿体無い!! 

という2点を持ち帰ったことは大きかったと思います。

元々、恥ずかしがり屋なので初めての人と接するのはとても苦手だったのですが、言葉が通じるってだけでとりあえずイケます! 笑

 カナダから帰ってきて、また私は自分は何の為に生まれてきたんだろう?と考えていました。

なんのために生きているんだろうって。。

そんな意味なんてない事なのかもしれないのに、当時の私はそれを求めていたのです。

 友人関係では恵まれていた私ですが、残念ながら家庭環境ではあまり恵まれていませんでした。そんな事もあってか精神的に何か支えを探していたのかもしれません。

​家庭問題についてはこちらをご覧ください。

2008.4 〜 2015.3
某テレビ局 ○○K 内にて建築関連の業務

 

​ これからお話しする内容は当時の話しなのでご理解ください。現在は結構しっかりしてると思います。と、もし知り合いに見られたら困るので一応断っておきます。 笑

 21歳になって大学に行ってる友達も来年から就職ということで精神的に

も遊んでいるわけにはいかなくなったので仕方なく就職。

工業高校を卒業していたので就活は遊んでいたにも関わらず2,3社で決まった。

 入社した当初まだ仕事が紙ベースで管理がずさんだった。

私が率先してデータ化を進めたので今では見違えるほど分かりやすく、管理の行き届いたものとなった。

あとは仕事のできる人間を引き入れたという事。元々人を見る目は養われているみたいだ。(家庭環境の影響かも。。)

 

仕事上の功績はこれぐらいだろうか。。

 部署の移動で工事課に配属された。これは各現場の責任者​となり、工程から竣工検査までを行う。各分野の職人さんに仕事をして頂いて工程通り進む様な環境づくりに徹するという仕事だ。

 しかし、それには当然建築のの幅広い知識などが必要になるのだが、元々知識は全くないし覚えたくもなかった。 笑 

 肝のところは勉強もしたし理解を深めたが、専門性という点では全く通用しないであろう。。

何故なら私は当時からこの分野で一生生きていくつもりがなく、いつかは起業し自分の可能性を試そうと決めていたからだ。

 

 そのために、経営の勉強や、成功哲学、小学生からの続きで心理学、神経科学、子育て論などを独学で学んでいた。

だから、なるべく仕事で必要な知識は最小限に、最小限の勉強だけで済ませたかった。

 起業し自分の可能性を試そうといったが、そもそも大学も出ていないしある程度の収入を得て自分で満足感を得るものは起業しか見つからなっただけだ。

最初はネットワークビジネス、いわいるネズミ講と思われているもの(一応違いますのでご理解を)に手を出した。最初は疑っていたし、社会勉強の為だったのだがいつの間にか数十万の借金を作ってしまった。 笑 

 今は全額返済したが、どんどん膨れていく。デート代、職場の飲み会、建築仕事だったので悪い遊びに親の借金。。

 生活レベルを下げればそんな大金には膨れなかっただろうに小室さんの気持ちがよくわかった。次元が違うが。。 

最後は数百万まで膨れた。 笑 

 ちなみに借金あった事は家族にはバレてないので言わないでください。 笑

 このおかげで28歳には成功して結婚している予定だったのだが、人生

予定通りとはいかないものだ。

 自分とは違い友達はみんな安定して、幸せな家庭がある。

本当ならみんなと同じコースを進みたかったのに。。。

こうなったら、独身貴族を満喫しなきゃ!!と負け惜しみを言って楽しんやろうと思っている。 笑

 さて、少し脱線しましたが責任者をやる上で一番必要なのは、やはりコミニケーション能力と責任感でしょう。

あとは気合やら、根性やら、運やら、自信やらなんやらでどうにかくぐり抜けていけます。

 

 責任者と言ってもほとんど何もわからないのです。職人さんに教えて頂き、作業してもらう。

そのためにはなるべく気持ちよく仕事してもらう為の環境づくりを優先していました。

 ただ、特殊な環境下の仕事だったので何度も無理を言った事もあり、そんな時は飲みに行ったり、悪い遊びに行ったりしていました。

 要するに何が言いたいかというと、仕事も人間関係さえ上手く出来ていれば大抵の事は成功するという事です。

 逆に言うと、仕事が滞ってしまうのは殆ど自分自身で抱えこんでしまい、情報の共有が出来ていない事から生じていました。

それは上司との関係が好ましくなかったり、職人さんとの関係が上手くいかなくて言いたい事が言えない。。などというところから来るわけです。

 私はといえば人づきあいは上手い方だったので、当然上司からの評価も良かったです。実は大して凄くないんですが。ラッキーです。 笑

仕事もやりやすいわけです。

 そんなこんなで私は特に仕事上の人間関係でトラブルになったという事はなかったのですが、ある時誰かに「どうして面倒なお客さんや上司と仲良くできるの?」

と問われ、考えました。

 

 

考えた結果。。。

 私は中学生の頃から家の家庭内トラブルをいつも話を聞いて殆ど解決してきたから。

という事に気付いたのです。つまり、365日、ごめんなさい。盛りました200日、いやそんなにないか、でも最低年間50日ぐらいはコーチングやカウンセリングをしていた事になるわけです。

それと比べたら赤の他人で仕事上付き合うしかない人づきあいぐらい上手く出来るのは当然です。

何せこっちはいくら話しを聞いて、問題を解決しても1銭にもならない事を13,4歳ぐらいから続けてきたんですから。。 

 勘違いしている方もいますが、身内の問題解決の方が自分が関る場合

一番厄介です。

考えてもみてください。身内に言われる事と同じ事をテレビで言ってても何故かテレビの方は納得するのに、身内に言われると反論したくなる。

そんな事ありませんか?

 私は当然の心理だと思います。身内だからこそ伝わらないんです。身近にいればいるほど伝わりづらいものです。

何十回、何百回と繰り返し同じことを言ってやっと少し伝わる。気が遠くなるような作業です。

だから、赤の他人の方がやりやすい場合もあるんです。

家族問題の詳細はこちらをご覧ください。

という事で家庭のイジコザも多少落ち着いたし、仕事も出来る後輩に引き継いだし、結婚して護るものが出来る前に起業して挑戦してみたいという事で今に至ります。

宜しければこちらもご覧ください。

2002.3〜 
中学3年の頃

 遡るのこと私が中学生の時です。はじめて進路を選択する岐路に立ちました。

これからの人生を考えました。

と言っても、まだ15年ほどしか生きてませんし、真剣に考えたところで早々に答えが見つかるものでもありません。

 

当時の私の夢は幼稚園の先生になることでした。

 

いつだったかは忘れましたが、おばあちゃんが

「たかちゃんは優しいから幼稚園の先生とか似合うかもねぇ」

という言葉の印象が自分の胸に強く響いていました。実際子どもが大好きで弟の世話もするのも好きでした。

私の家族は兄弟が4人いて弟とは8歳離れています。

 弟が生まれた頃はそこそこ両親の関係も悪くはなかったのですが、次第に関係が崩れていき、修復出来ないものとなっていきました。

 弟が生まれて家族全員で遊びに行くことはほとんどなかったのを記憶しています。

当時小学3,4年生であった私ですが、父親の存在が希薄になったせいも

あってか、私がしっかりして弟の面倒を見ようと思ってました。

父親の代わりは俺がこなそうという気持ちさえあったのを記憶してい

ます。

 10個近くも離れていると喧嘩もやりようがないし、可愛くて仕方な

かった。

今でも仲はいいですがずっと子どものままで居て欲しかったです。 笑

 

 そんなこんなもあってで幼稚園の先生を目指そうと考えたわけですが、

当時の両親の関係は壊れていましたし、その憂さ晴らしか父親が借金を

作ったりで経済的になるべく早く就職する必要があるし、そもそも幼稚園の先生は給料が低すぎて結婚出来ない等の理由から断念することとなった

のです。

 話は少し戻りますが私の家族は兄弟間はとても仲が良いのですが、先述した通り弟が生まれて間もなく関係が壊れ始めていきました。

 母親は思い込みが激しく、溜め込む傾向があって、よく救急車で運ばれていました。

いわゆる精神疾患のパニック障害というやつです。

当時私達子どもも幼かったから捌け口がなかったわけですね。

 

 当時は私も何が何だかわからなかったのですが、人間何事にも慣れる

事が出来るもので回数が増えるようになると「またか」

「はいはい。。」と冷静に対応するわけです。

本人は辛そうでしたが私達子どもも毎度毎度心配していられる状態でもなかったわけです。 

 そんな特別な環境下で育っていた影響か、小学校高学年には図書館の心理学、哲学コーナーに興味を持ち始め、読み漁りました。

これは就職してからですが、セミナーにも何度も足を運びました。

 その知識を使い家庭トラブルが起きても今では難なく対処できるようになっています。

未だに家庭内別居ですが、お陰様で今では母親も症状が起きることなく人生を謳歌しています。

 

 さて、今までそんな家庭で育ってきた私ですが、心理学、神経科学、哲学、人間関係に関わるあらゆる知識を取り入れると私の家庭でも対処は出来たしこんな悲惨な環境になることはなかったと今では思えるの

です。

 それはおそらくどの家庭でも共通してることなのですが、小さなことが複合的に絡み合い、または蓄積し、ついには修復できないほどの爆発を生みます。

 これは航空事故の例ととても似ています。

私は何故か航空事故の事故調査番組が好きで何度も観ているのですが、航空機というのは当時のあらゆる技術の集合体で、予想されるリスクを算出しそれに対応しているというものでした。

 しかし、どんなにリスクアセスメントしても事故は起こってしまった

のです。 

 

 事故のほとんどの原因となることは一つのことではなく複数の偶然や思い違いなどが連鎖し大惨事の事故と繋がるのです。

 

これと同様に家庭の問題も小さなことから歪みが生じ、その問題を放っておくと時間の経過とともに事態は悪化の一途をたどるわけです。

 

 

 さて、ではどのようにすればいいのか?根本的なところを意外とみんな忘れています。

 それさえ理解し、接すれば大した問題にはなりません。

その根本的なお話は講座内でお伝えしたいと思います。文字だけですと伝わりづらいし誤解を生じます、また時間を何時間も要しますのでご理解ください。

 

そんな自分の経験からよりより家庭の形とは・・??

というのを常に考えて生活していました。

 

 そして、30歳を目の前にしてようやく形となりました。

自分は大丈夫だろうと思いの方もおられるかと思いますが、是非一度足を運んで頂きお話できると幸いです。

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家庭問題
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​・ゾロくんのポージング   (可動式のフィギア)

​・一眼レフで撮影。

​・サボテンくん 

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